「トルコの歴史でスターが輝いた瞬間 」 第43回

ホラズム・シャー朝

「トルコの歴史でスターが輝いた瞬間 」 第43回

ホラズム・シャー朝は大セルチュク朝の一部で後継の国家でした。

中央アジアのマー・ワラー・アンナフルと呼ばれていた地域にあるアラル海の南部にあった町ホラズムから、この国の名前が付けられました。

この国の君主はアッバース朝時代から、「ホラズム・シャー」または「ホラズム・スルタン」という名称を使用していました。

大セルチュク朝時代にセルチュク朝司令官のバルカ・テギンがグルジスタンから買って、宮殿の軍隊に加えたアヌーシュ・テギーンがホラズム・シャー朝の建国者です。

アヌーシュ・テギーンはセルチュク朝の宮殿で、タシト・ダール職(大水差し持ち)にまで昇進し、セルチュク朝スルタンが最も信頼した人物のひとりとなるほどでした。

同時に彼は、ホラズム・シャーとして派遣されました。

セルチュク朝スルタンのトゥグリル・ベグからセルチュク朝の宮殿に管理されていたホラズム地方は、アヌーシュ・テギーンから管理され始めました。

その後も彼の息子たちによりこの町とその周辺が管理され続けました。

それではガージ大学の歴史家、ギュライ・クルプク助教授の、ホラズム・シャー朝に関する見解をご紹介していきます。

 

1097年に西アナトリアを侵略し始めた十字軍への対処で多忙だったセルチュク朝は、ホラズム地方の管理を部分的に放置していました。

そしてこの時期、ホラズム・シャーだったアヌーシュ・テギーンの息子クトゥブッディーン・ムハンマドが君主として在位していました。

クトゥブッディーン・ムハンマドはセルチュク朝支配者に常に忠誠心を示していました。

1128年に彼が死去した後、セルチュク朝のスルタン・サンジャルにより長男アラアッティン・アトスズが後継者として任命されました。

アトスズもスルタン・サンジャルに常に忠誠心を示しました。

しかしこの時期にセルチュク朝の中央集権政策のために、ホラズム・シャー朝のアトスズは多くの場所で独立した国家政策を実施しました。

オグズがスルタン・サンジャルを捕虜にした際にサンジャルに忠誠を誓ったアトスズは、1156年に死去しました。

スルタン・サンジャルにより彼の後継者に息子のイル・アルスランが任命されました。

イル・アルスランもセルチュク朝に従属しましたが、スルタン・サンジャルが1157年に死去した後、ホラズム・シャー朝は完全に独立した政治的存在になりました。

しかしセルチュク朝の性質を受け継ぐ国家として存在し続けました。

イル・アルスランはカラ・キタイと戦い、イラク・セルチュク朝と共に同盟を作りました。

ホラズム・シャーのイル・アルスランは、息子のスルタン・シャーを後継者に指名しました。

 

スルタン・シャーと対立したアラーウッディーン・テキシュは勃発した戦争で勝利し、1172年にホラズム・シャーになりました。

アラーウッディーン・テキシュの時代はホラズム・シャー朝の最も輝かしい時代でした。

彼の時代にイラク・セルチュク朝も1194年にホラズム・シャー朝の従属となりました。

シャフレ・レイの町で起きた戦争で勝利したアラーウッディーン・テキシュは大セルチュク朝が存在した主な地域を支配しました。

「スルタン」の称号もこの日から取得したアラーウッディーン・テキシュが死去すると、その代わりに息子のアラーウッディーン・ムハンマドが1200年から1220年まで在位しました。

ゴール朝のスルタンたちとの関係を悪化させたアラーウッディーン・ムハンマドは、まずカラ・キタイと、ゴール朝と対立する同盟を結びました。

しかしカラ・キタイが自分を臣従に下げたのを受け、再びゴール朝のスルタンたちと共に同盟を結び、1210年にカラ・キタイをマー・ワラー・アンナフルから追い出すことに成功しました。

アラーウッディーン・ムハンマドはガズナ朝を征服した後に息子のジャラールッディーンをガズナ朝の町に派遣しました。

アラーウッディーン・ムハンマドは暗殺教団とも戦わなければなりませんでした。

1218年にチンギス・カンと始めた戦争で、アラーウッディーン・ムハンマドは敗北しました。

その後カスピ海のアバスクン島に逃れましたが、ここで病気になりました。

死去する前に息子たちを呼び寄せ、ジャラールッディーンを後継者に選んだことを伝えました。

 

ジャラールッディーン・ホラズム・シャーの兄弟たちはモンゴル人と行った戦争で殉職しました。

ジャラールッディーンは1221年にガズナ朝に向かい、ここでモンゴル人と戦うための準備を行いました。

多くの戦いでモンゴル軍を負かしたにもかかわらず、インド内部に退陣せざる終えませんでした。

1224年にインドからケルマーンに侵入したジャラールッディーン・ホラズム・シャーは、1225年にイルデニズ朝のアタベイリクの都タブリーズに侵入しました。

イラン全土は再びジャラールッディーン・ホラズム・シャーの尽力によりホラズム・シャー朝の手に渡りました。

ジャラールッディーンは同時に、キリスト教徒のグルジア人と暗殺教団とも戦っていました。

最後にジャラールッディーン・ホラズム・シャーはアナトリアにも侵入し、アフラトを奪い、征服しました。

この事件はルーム・セルチュク朝スルタンのアラーウッディーン・カイクバードとの間がこじれる原因となりました。

スルタン・アラーウッディーン・カイクバードは彼の領土に遠征してきました。

1230年にエルジンジャンの近くのヤッスチメンで行った戦争で敗北したジャラールッディーン・ホラズム・シャーは、ディヤルベキル州に逃れ、うわさによるとそこの山村で避難中に殺害されました。

ホラズムの種族はアラーウッディーン・カイクバードによりアナトリア東部、中央部、西部に定住させられました。

こうしてホラズムのトルクメン人たちは新しい歴史の一部に、つまりトルコ史に含まれ、アナトリアのイスラム教トルコ人の間で存在し続けました。



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