「トルコの歴史でスターが輝いた瞬間 」 第51回

ガジ・アフシン・ベグ

「トルコの歴史でスターが輝いた瞬間 」 第51回

「アフシン」は中央アジア地域の管理者たちに与えられた称号です。

ガジ・アフシン・ベグはセルチュク朝の最も有名な凱旋兵で、ベグのひとりでした。

トルコの征服者の中でもトップの、セルチュク朝ベグのひとりでした。

1063年にスルタン・アルプ・アルスラーンが王位に就いた後、ヴァン地方のホラサンはトルクメン人が定住し始めた地域でした。

1066年以来ハジプ・ギュムシュ・テキンが統制していたオグズ系ベグの中にアフシン・べグもいました。

彼はムラト川とチグリス川に沿った多くの場所を征服しました。

ニジプ地域とアドゥヤマン地域を征服した、南東アナトリアの最初のトルクメン人征服者のひとりだったアフシン・ベグは、ウルファ地域のビザンツ帝国将官アルアンダノスも破り、地域の征服で多くの基本的役割を果たしました。

それではガージ大学の歴史家、ギュライ・クルプク助教授の、ガジ・アフシン・ベグに関する見解をご紹介していきます。

 

ガジ・アフシン・ベグは、従属していたセルチュク朝のベグ、ギュムシュ・テキンの兄弟をアフラトで殺害したために彼との関係が悪化し、ギュムシュ・テキンと対立して彼を殺害しました。

この事件によるスルタン・アルスランの自分への怒りから逃れるために西に向かい、アンテプまでの土地を征服しました。

その後アンテプから活動を開始し、1068年にアンタクヤを包囲しました。

アフシン・ベグはこの包囲中にスルタン・アルプ・アルスラーンが自分を許したことを知ると、アンタクヤのビザンツ帝国の駐屯地と合意を交わし、一定の税金支払いと引き換えに包囲を解除して東に帰還しました。

1年後に中央アナトリアのクズルウルマク川の川岸に向かったアフシン・ベグは、ビザンツ皇帝ロマノス・ディオゲネスがアレッポに遠征中、ビザンツ帝国の西アナトリア地域に隙があると見て、その地域に素早く作戦を実行しました。

エスキシェヒルとイスタンブル方面に征服と発見の作戦を広げたアフシン・ベグは、ロマノス・ディオゲネスが自分を追跡するために出発した知らせを受け、コンヤからチュクロヴァ、そしてそこからアンタクヤを包囲しました。

アンタクヤのこの二度目の包囲でも、アフシン・ベグは町に税金を課して東のアフラトに帰還しました。

 

1070年にセルチュク朝のベグのひとりで、スルタン・アルプ・アルスラーンの女兄弟ゲヴヘル・ハトゥンの夫エル・バスガンは反乱を起こし、指揮をしていたトルクメン人のグループと共にビザンツ帝国に避難しました。

そしてビザンツ帝国の国境近くでロマノス・ディオゲネスの司令官のひとりマヌエル・コムネノスと遭遇したエル・バスガンは、彼に避難するために来たと伝えましたが信じてもらえず、マヌエルと戦うことになりました。

マヌエル・コムネノスに敗北したエル・バスガンは捕虜になりました。

そしてエル・バスガンはマヌエル・コムネノスに難民で、スルタンから逃れたと伝えることができました。

一方スルタン・アルプ・アルスラーンもエル・バスガンのためにアフシン・ベグを任務に就かせました。

アフシン・ベグはイスタンブールの手前までエル・バスガンを追跡しましたが、冬が近づいていたためにアフラトに戻りました。

その後スルタン・アルプ・アルスラーンと共に翌年の夏に勃発したマラズギルトの戦いに参加しました。

1077年にシリア地域をメリク・トゥトゥシュに与えたスルタン・メリク・シャーは、アフシン・ベグをトゥトゥシュの下に就かせました。

しかしトゥトゥシュが別のオグズ系ベグだったアトスズをダマスカスで殺害したために、トゥトゥシュに対する信頼を失くしたアフシン・ベグは彼から離れました。

彼は北に向かい、1078年にアンタクヤを包囲しました。

アンタクヤを略奪したアフシン・ベグのため、トゥトゥシュは南から攻めていきました。

 

メリク・トゥトゥシュが自分に向かっている知らせを受けたアフシン・ベグは、ディヤルバクル地方に向かい、地域から遠ざかりました。

アフシン・ベグはアンタクヤに今回も税金を課しました。

アフシン・ベグのディヤルバクル襲来後の出来事について、史料で情報は見つかりません。

彼はこの事件後に死去しているはずです。

ガジ・アフシン・ベグはビザンツ軍に対し、西アナトリアまで渡る征服活動を行った、選りすぐりのイスラム教徒のトルコ人ベグでした。

彼のロマノス・ディオゲネスによる追跡で行ったとされる作戦と戦術、そしてビザンツ帝国の内部地域で実行した来襲は、マラズギルトの戦い前の注目される重大な軍事的事件でした。

この大セルチュク朝のガジ・ベグを、慈悲と感謝と共に追悼します。



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